(ちいさなちいさな・・)
ようやく文庫になってくれたダ・ヴィンチ・コード。
本は文庫で買う主義なので、今さら手にいれました。
好きなの。キリストミステリー。なぜか。
小さい頃から五島勉の「ノストラダムスの大予言」
を読んで育った私ですが、
それに確か「キリストの墓は青森に」と書いてあり(記憶曖昧)
なんだこれ、うちの近所じゃん!ってさっそく行ってみた。
そしたら本当にあったの!
小さい頃から、へんてこキリストミステリーが
ご近所にあったから、こういう話には
ついついわくわくしてしまうみたい。
でも、ついこの前までは、仏教一直線だったの。
仏教エンターテインメントおもしろいんだ。
京都の有名どころを総あたり、奈良まで行っちゃったよ!
しかし、はるばる京まで行ったというのに、
なぜか一部の仏像たちは、
東京上野に遠征中だというではないですか!
仏像なのに、移動なんかするなー!
そんなわけで、東京へ帰ってきて数日後には、
国立博物館にも行ってきた。
(手前は私の目)
夢中といっても、哲学とか思想にはまってるとか、
そういうアカデミッキーなことじゃーないの。
あちこちの仏像を見て、出た結論は
「大日如来、いいスマイルだなぁ。」と
「千手観音を背中からみると、かに道楽だなぁ。」
だから。
歴史を感じたかった、とでもいいましょうか。
駆け抜けるように訪れた仏像ブームだったの。
(空也上人を見ている私)
ここでひとつ、私が発見した仏像ミステリー。
京都の寺にいた仏には、
みんながお賽銭をあげてありがたく拝んでいる。
じみ〜なお寺の裏庭の片隅にいる小さな仏でさえも
頭の上に一円玉をたくさんのっけていたりする。
それなのに!
国立博物館にいた仏は、誰ひとりとして拝まない。
拝んでたらおかしいけど、よく考えると不思議じゃない?
ハコが変われば、意味も変わるのか?仏像よ。
ホームグラウンドではありがたく拝まれている仏だけど、
ところ変われば見世物小屋状態。
「都会の人って冷たい。もう東京はイヤ。」
と思っているに違いないわ。
もちろんさ、東京に運ぶ前に、
お坊さん達が魂抜きの儀式とかやってると思うけど、
そういう問題なの?
魂がはいってなきゃ拝まないよ、って・・。
みんなは魂に向かって拝んでいるという意識が普段からあるの?
あるのですか?
ええーっ?
仏像の穏やかな表情を見ていると、
「とりあえず拝んでおかなくちゃ」と
条件反射のように手を合わせる私のような人は
いなかったというの?
私もトモババ像という仏型のものを作ったことがあるんだけど、
あの方たちには、私がひとつひとつ魂こめている。
特に顔の表情にはアルカイックスマイルを。
乳房の造形には神々しい貫禄を、と、いちいちこだわった。
「トモババ像にも、魂、たっぷりはいってますよ」
といったら拝んでもらえるの?
(これがこだわりの像)
仏像って何なの?
魂のいれもの?
と、なんだかすっごい基本的な疑問をもってんだけど、
今の興味はキリスト教にうつってしまったので、
今んとこ、その疑問は保留って感じ。
時々くるんだよね、宗教ミステリーブーム。
うちになぜかチベット密教の本が何冊もあるもんね。
「死者の書」がどーのこーのだったのは覚えてる。
何年前のブームだったかな、チベットは。
全部忘れたんだけどね。えへ。
スマイル!